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リーダーの本当の役割|人が動き出す空気を作る存在

目次

なぜ優秀な若手ほど動けないのか?
 ―その原因は“能力”ではなく“脳のブレーキ”だった―


泣きながら抱きしめられた日、私はリーダーの本当の役割を知った

その職場は、白かったんです。
壁も、床も、光も。そして、空気までも白い気がした。
クリーンルーム。汚れを徹底的に排除する場所です。
でもね、不思議なんですよ。
汚れは排除するのに、人の感情や空気は残る。むしろ濃くなるんです。

入口でマスクを整えながら、私は一度だけ息を吸いました。
胸の奥が少しだけ硬い。いや、正直に言うと、かなり硬かった。
その理由ははっきりしています。その現場には、自分より年上のメンバーが多かったんです。
しかも、みんな現場経験が長い。私は外から来たばかりで何も知らない。
それなのに肩書はリーダー。
この構図、経験ある方ならわかると思います。一番しんどいやつです。

「あいつ、何も知らねえから当てにならないぞ」

十年以上この現場を支えてきた大先輩のその一言で、空気が決まりました。
私はその瞬間に感じたんです。
歓迎されていない。そして同時に、試されている。
でもね、頭では理解していても、感情は追いつかないんですよ。

リーダーなのに頼れない。これが一番きつかった。
わからないのに聞きづらい。聞きたいのに弱く見られたくない。
指示したいのに自信がない。頭の中で声が流れるんです。
「これ聞いたらなめられるかな」
「こんなことも知らないのかと思われるかな」
「でも、このまま指示を出したら事故になるぞ」
これが、私が言うティッカーテープです。

人は行動しようとした瞬間、できる理由よりも、やらない理由を先に思い浮かべる。
これは性格ではなく、脳の仕組みです。
失敗=危険と判断するために、「やめておけ」「今じゃない」「無理だろ」と、勝手にブレーキをかける。
しかも厄介なのは、それが自分の声に聞こえることなんです。
だから人は「やる気がない」と勘違いする。
でも違う。脳が止めているだけなんです。

そのときの私は、まさにその状態でした。
しかも相手は年上で経験豊富。強く出れば反発される。弱く出れば舐められる。
この間がない。逃げ場がない。正直、かなりのストレスでした。

それでも私は、違う選択をしました。
「教えてください」。言った瞬間、自分でもわかりました。ああ、今弱さを見せたな、と。
でも、知らないのに変えるほうがもっと怖かった。だから聞いたんです。
毎日、聞いて、聞いて、聞いた。ただの学習ではありません。これは自分のプライドとの戦いでした。
知っているふりをしたくなる自分と、リーダーらしく振る舞いたい自分と、でも実際は知らない自分。
そのギャップが苦しい。でも、聞き続けることで少しずつ自分の中の抵抗がほどけていったんです。

ただし、空気はすぐには変わりません。
「また言ってるな」「どうせ続かないでしょ」口には出さないけど伝わる空気。
夜、帰り支度をしながら思いました。嫌われているのかもしれない。言いっぱなしなのかもしれない。
そしてこうも思ったんです。「自分はこの現場に必要とされているのか?」と。

それでも逃げませんでした。リーダーは好かれる役割じゃない。守るべきものがある。
品質、安全、仲間。そのために嫌われ役を引き受ける日もある。そう思って踏みとどまりました。

ある日、主任が工程計画書を手書きで作っていました。
紙に線を引き、順番を考え、数字を並べる。その作業を見ながら、私は違うものを見ていました。
関連、規則、繰り返し。これは人がやる仕事じゃない。本来、仕組みにすべきものだと。
「これ、データベースにしたら自動でできますよ」と言うと、「できたらすごいですね」と軽く返された。その一言に、「どうせ無理」という空気を感じました。

だから私は、何も言わずに作りました。一週間、誰にも言わずに。
完成したものを主任に使ってもらうと、一時間かかっていた作業が三分で終わった。
そして主任がぽつりと言いました。
「これのために、毎日一時間早く出社してたんです」その瞬間、私は理解しました。
なくなったのは時間だけじゃない。早出という負担、不安、緊張、それらが一気に消えたんです。

でも、現場は変わらなかった。主任が楽になっても、他の人には関係がない。
人は、自分に関係のある変化でしか動かないんです。

その数日後、設備の話を聞きました。
「十年以上トラブルが直らなくて、メーカーに頼んでも原因不明で……止まるたびに、リセットボタン押して再起動させるんです」この言葉の中には、完全に諦めが含まれていました。
治らないという前提。だから考えない。

でも私は思いました。治らないは事実じゃない。仮説だ。仮説なら崩せる。
そこから図面と回路と現物を一つずつ見ていきました。
そして見つけたんです。結線ミス。本来あってはいけないタイミングでリセットがかかる構造。
それを直した瞬間、十年以上止まらなかったトラブルが止まりました。

翌日、現場の空気が変わっていました。
静かだけど、軽い。「……本当に直ったの?」その一言から、驚きが広がり、やがてこう変わるんです。
「これ、見てもらえますか?」
「相談していいですか?」

その瞬間、私は気づきました。
現場は答えを求めていたんじゃない。
相談しても大丈夫な空気を求めていたんです。
そして同時に、ティッカーテープが止まった。
「どうせ無理」が、「もしかしたらいけるかも」に変わった瞬間でした。 

なぜ人は動けないのか―脳に仕掛けられた“見えないブレーキ”

「白い部屋の空気」あのとき現場の人たちは、能力がなかったわけでも、やる気がなかったわけでもありません。
それでも動けなかった。ではなぜか。結論から言います。

人は“動けないようにできている”んです。

少し驚きませんか?でもこれは根性論でも精神論でもなく、脳の仕組みの話です。

人は何か新しいことをやろうとした瞬間、頭の中に“ある声”が流れます。
「失敗したらどうする」「うまくいかなかったら恥をかく」「今やる必要あるのか」
これが、私が現場でよく言う“ティッカーテープ”です。
まるで電光掲示板のように、次から次へとネガティブなメッセージが流れてくる。

これ、気合いで止められるものではありません。
なぜなら、脳が意図的に出しているわけではなく、自動的に流しているからです。
心理学ではこれを「自動思考」と呼びます。人は意識する前に、すでに判断している。

ではなぜ、こんな仕組みがあるのか。理由はシンプルです。

脳は“失敗=危険”と判断するからです。

人間の脳は、生き残ることを最優先に設計されています。
進化の過程で、危険を回避した個体が生き残ってきた。
だから脳は、新しいことや不確実なことに対して、まずブレーキをかけるようになっている。

例えば現場で改善を提案しようとした瞬間、こういう声が流れます。
「それやって失敗したらどうする」「余計なことして怒られたらどうする」「今のままでいいんじゃないか」
これ、本人は気づいていないことも多いんです。でも確実に流れている。だから人はこう勘違いする。

「自分はやる気がないんだ」
違います。
脳が止めているだけです。
クリーンルームの現場もまさにそうでした。
「十年以上トラブルが直らなくて、メーカーに頼んでも原因不明で……止まるたびにリセットボタン押して再起動させる」
この状態、よく見るとおかしいですよね。でも誰も疑わない。なぜか。

ティッカーテープがこう流れているからです。

「もう無理だろ」
 「いろんな人が見た結果だ」
 「自分がやっても変わらない」
これが積み重なると、どうなるか。

“考えないことが正解”になるんです。ここ、すごく重要です。

人はサボっているわけではない。むしろ真面目な人ほど、この状態に入りやすい。
なぜなら、余計なことをしないほうが安全だと学習しているからです。

さらに厄介なのは、この状態が“普通”になってしまうことです。
心理学ではこれを正常性バイアスと呼びます。
問題があっても、それを問題だと認識しなくなる。「昔からこうだから」「みんなやってるから」で思考が止まる。

主任もそうでした。手書きで一時間かけて作っている工程計画。それを誰も疑わない。
なぜか。大変だけど、それが当たり前になっているからです。
でも私は、そこに違和感を感じた。

違和感は、ブレーキの外側にあるんです。

ティッカーテープが強く流れていると、人は違和感すら感じなくなります。
でも一歩外に出ると、「なんでこんなことやってるんだろう」と見えるようになる。
ここがリーダーの役割です。

“当たり前を疑う視点”を持てるかどうか。
ただし、ここでまた一つ大事なポイントがあります。
気づいても、人はすぐには動けない。
なぜか。まだブレーキがかかっているからです。

「これ変えたほうがいいよね」と思っても、「でも失敗したらどうする」「反発されたらどうする」とティッカーテープが流れる。
この状態では、正しいことがわかっていても動けない。

では、どうすればいいのか。
ここで重要になるのが、第1章で起きた“あの瞬間”です。
「……本当に直ったの?」
この一言。
このとき現場で何が起きていたか。
ティッカーテープが止まりかけたんです。

十年以上止まらなかったトラブルが止まった。
その事実が、「どうせ無理」という前提を崩した。すると脳はこう変わります。

「もしかしたら、いけるかも」

この“もしかしたら”が出た瞬間、人は動き始めます。これ、すごく重要です。
人は「絶対できる」と思わなくてもいいんです。
「できるかもしれない」で十分なんです。
ここで脳の状態が変わる。
回避モードから、探索モードへ。恐怖から、期待へ。

だから現場の人たちはこう言い始めた。
「これ、見てもらえます?」
 「相談していいですか?」
これは単なる行動の変化ではありません。
“思考の許可”が出た状態です。

つまり、「考えてもいい」「試してもいい」という許可が、自分の中で出た。
ここまで来て初めて、人は動きます。
逆に言うと、ここに至らない限り、どれだけ正しいことを言っても人は動きません。

「主体性を持て」
 「改善しろ」
 「考えろ」

こういう言葉が現場で響かない理由は、ここにあります。
脳が“やるな”と言っている状態で、“やれ”と言われても動けないんです。

では、リーダーは何をすべきか。
答えはシンプルです。
ブレーキを踏んでいる状態でアクセルを踏ませるな。
まずはブレーキを外せ。
この“ブレーキを外す”というのが、私の研修の本質です。

スキルを教える前に、やり方を教える前に、まずはここ。
人の内側で何が起きているのかを理解し、ティッカーテープに気づかせる。
そして「もしかしたらできるかも」という状態をつくる。

ここまでできると、人は勝手に動き始めます。
白い部屋で起きたことは、特別なことではありません。
人が本来持っている力が、発揮された瞬間です。
ただそれを止めていたのが、脳のブレーキだった。
この事実に気づくだけで、リーダーの関わり方は大きく変わります。 

なぜ今の若手は“特に”動けないのか―時代が生んだ新しいブレーキ

ここまでお話ししてきた内容を振り返ると、「人はもともと動きにくいものだ」と感じている方もいるかもしれません。それは間違いではありません。
人は本来、脳の仕組みとしてブレーキがかかるようにできている。
ただ、現場に立っていて強く感じるのは、今の時代、そのブレーキが“より強く働いている”ということです。

しかも厄介なのは、本人たちにその自覚がないことです。
むしろ逆で、「自分はできる」と感じているケースが多い。
この“できると思っているのに動けない”という状態。
ここに、今の時代特有の構造があります。

最近の若手と関わっていると、能力の高さを感じる場面は本当に多いんです。
理解は早いし、情報収集も上手い。理屈もしっかりしている。正直、優秀です。
ただ、現場に戻ると止まる瞬間がある。
会議ではしっかり話せるのに、実際の行動になると一歩が出ない。
このズレに違和感を覚えたことはないでしょうか。

この背景にあるのが、「すぐに答えが手に入る環境」です。
スマートフォンを開けば情報はすぐに見つかる。AIに聞けば整理された答えが返ってくる。
動画を見れば手順も理解できる。
つまり今は、「考え続けなくても答えにたどり着ける時代」なんです。

これはとても便利ですし、効率的でもあります。
ただその一方で、「迷いながら進む力」が育ちにくくなっている。
昔は、わからないことがあれば調べて、試して、間違えて、やり直す。
このプロセスの中で、人は粘る力や試す力を身につけていきました。
ところが今は、途中を飛ばして答えに行ける。
すると、正解のない場面に立ったときに止まってしまう。

「どう進めればいいかわからない」「正解が見えない」「失敗したくない」

この瞬間、頭の中ではあのティッカーテープが一気に流れます。
「やめておけ」「今じゃない」「もう少し情報を集めてから」その結果として、人は動かなくなる。
でも本人は「ちゃんと考えている」と感じている。
ここにズレが生まれます。

さらにもう一つ、見逃せない特徴があります。
それが「できる気がする」という感覚です。
情報を知っている、理屈も理解している。だから「やればできる」と思う。
でも実際には、その行動を最後までやりきった経験が少ない。
この状態は、一見すると自信があるようで、実は非常に不安定です。

本来の自己効力感というのは、「やってみた→できた→次もできる」という体験の積み重ねで育ちます。でも今は、「知っている→理解している→できる気がする」で止まってしまう。
だから、最初の一歩で止まる。その瞬間にまた、ティッカーテープが強く流れる。

現場で見える「指示待ち」や「主体性が低い」という現象は、こうした構造の結果です。
決して本人のやる気や性格の問題ではありません。
むしろ真面目で責任感のある人ほど、「間違えないようにしよう」として止まりやすい。

ここで多くの現場がやってしまうのが、「もっと考えろ」「主体性を持て」「とにかくやってみろ」というアプローチです。
気持ちはよくわかります。
ただ、ブレーキがかかっている状態でアクセルを踏ませても、人は動けません。

必要なのは、その逆です。まず、動ける状態をつくること。
そのために欠かせないのが、小さな成功体験です。
やってみる、うまくいく、認められる。
この積み重ねによって、「もしかしたらできるかも」という感覚が生まれる。
この“もしかしたら”が出た瞬間、ティッカーテープは弱まり、人は一歩を踏み出せるようになります。


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白い部屋で起きた変化も、まさにこれでした。十年以上止まらなかったトラブルが止まった。
その事実が、「どうせ無理」という前提を崩した。
そして、「もしかしたらいけるかも」という空気が生まれた。
その結果、「相談していいですか」という言葉が自然に出てきたんです。

ここで初めて、人は動きます。
つまり、リーダーの役割は変わります。
答えを出すことでも、指示を出すことでもありません。

人が動ける空気をつくることです。

失敗してもいい、相談してもいい、試してもいい。その空気があるとき、人は自ら考え、動き始める。
逆にこの空気がなければ、どれだけ正しいことを教えても、人は止まったままです。
ここまで見てきたように、若手が動かないのではありません。
動けない構造になっているだけです。
そしてその構造は、変えることができます。 

“何をするか”から“どんな存在か”へ

ここまで読み進めていただいた中で、「ではリーダーは結局、何をすればいいのか」と感じている方もいらっしゃるかもしれません。
課題を見つけ、分析し、対策を立て、メンバーに指示を出して結果を出す。
そのためにスキルを学び、ツールを使いこなす。
私自身もかつては、それこそがリーダーの役割だと信じていましたし、多くの場面でそう教えられてきました。

しかし、あの白い部屋での経験を通じて、どうしても拭いきれない違和感に直面したのです。
正しいことを言っている。やるべきことも間違っていない。それでも人は動かない。現場は変わらない。その現実を前にしたとき、私はようやく気づきました。これは「やり方」の問題ではないのではないか、と。

そこで自分に問いかけたのです。「自分は、何をする人なんだろうか」そしてすぐに、もう一つの問いが浮かびました。「自分は、どんな存在でありたいのか」この二つの問いは似ているようで、本質的に異なります。
「何をするか」は行動の話です。しかし「どんな存在か」は、その人の在り方そのものです。
そして人は、行動によってではなく、その人の在り方によって動かされる。

例えば、自分を「課題を解決するリーダー」と定義していると、どうしても答えを出すことに意識が向きます。
それは一見正しい行動に見えますが、その結果としてメンバーは「答えを待つ人」になっていきます。
一方で、「人の可能性を引き出すリーダー」と定義したとき、行動は大きく変わります。答えを与えるのではなく、問いを投げるようになる。考える場をつくり、安心して言葉を出せる空気を整える。そのとき、メンバーは「自ら考え、動く人」へと変わっていきます。

この違いは、スキルの差ではありません。知識の量でもありません。
定義の差です。

白い部屋で私がやったことも、一つひとつを見れば特別なことではありません。
データベースを作る、トラブルの原因を見つける。それ自体は技術的な対応です。
しかし現場が変わった理由は、その結果ではありませんでした。

「ここでなら相談してもいい」と感じられる空気が生まれたこと。
それがすべてでした。

つまり、リーダーの役割は問題を解決することではありません。
問題に向き合える状態をつくることです。
この本質を見誤ると、リーダーはどんどん苦しくなります。
自分がすべてを背負わなければならない。自分が答えを持っていなければならない。
そう思えば思うほど、現場はリーダーに依存し、組織としての成長は止まってしまう。

しかし、自分を「場をつくる存在」として定義したとき、景色は一変します。
メンバーの発言が増え、相談が増え、小さな挑戦が積み重なっていく。
そして気づいたときには、現場が自ら動き始めている。
この変化は、外から強制して生まれるものではありません。
内側から自然に立ち上がるものです。

ここで重要なのは、行動を変えようとする前に、定義が変わる必要があるということです。
人は「こうあるべきだ」と思っている在り方に従って行動します。
だからこそ、リーダーとしての定義が変わった瞬間に、関わり方が変わり、言葉が変わり、空気が変わる。

そのとき、リーダー自身の中で流れているティッカーテープも変わります。「失敗できない」「正しくやらなければならない」という声から、「どうすればこの人は考えられるだろうか」「どうすれば安心して話せるだろうか」という問いへと変わる。その変化はやがて周囲に伝わり、空気となって広がっていきます。

つまり、リーダーとは何か。
人を動かす人ではない。
人が動き出す空気をつくる存在です。

この定義に立ったとき、リーダーという役割は、まったく違う意味を持ち始めます。


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エピローグ

ここまで読み進めてくださり、本当にありがとうございます。

私は、3月31日の誕生日をもって定年退職を迎えることができ、40年間の長いサラリーマン人生の節目となりました。これからも、ナレッジリーの仲間達と続けて頑張りたいと思っています。そんな節目の時、いろいろなことが頭の中を駆け巡り、失敗・失敗・失敗・成功の人生だったと、あらためて感じています。そして、最後に、どうしてもお伝えしておきたい場面があります。

あの白い部屋を、私が去る日のことです。
その日は、特別な演出があるわけでもなく、いつもと同じように終わるはずでした。
仕事を終え、着替えをして、静かにその場を離れる。ただそれだけのはずだったのです。
しかし、クリーンルームの外に出た瞬間、空気が違うことに気づきました。
あの白い部屋の中とは違うはずなのに、どこか似ている。
静かで、張りつめていて、それでいて温かさを含んだ空気でした。

顔を上げると、そこにメンバー全員が並んでいました。誰か一人ではありません。
仕事の手を止めて、ただその場に立っている。
その光景を見た瞬間、胸の奥にあった緊張が、ゆっくりとほどけていくのを感じました。
あの場所に来たときの重さとは違う、静かな解放感でした。

言葉が出てきませんでした。何を伝えればいいのか、何から話せばいいのかもわからない。
ただ、その場に立ち尽くすことしかできなかったのです。

そのとき、一人の男性が前に出てきました。最初に私に対して厳しい言葉を投げかけた、あの大先輩です。最後まで距離がある関係のままなのだろうと、どこかで思い込んでいた相手でした。
しかし、その人は私の前まで来ると、何も言わずに、抱きしめてきたのです。
その瞬間、驚きよりも先に伝わってきたのは、体の震えでした。
強く抱きしめているはずなのに、抑えきれない感情が、その震えとなって伝わってきたのです。

「お前が来てくれたおかげで……」
言葉は途切れ、何度も詰まりながら、それでも必死に伝えようとしてくる。
「みんなが……笑顔で……元気になったのに……」
その言葉の最後は、涙にかき消されていました。
大きな声で、子どものように、何も隠さずに泣いていたのです。

その姿を見たとき、私はようやく理解しました。拒まれていたわけではなかった。試されていたわけでもなかった。ただ、信じるきっかけがなかっただけだったのだと。そして、そのきっかけが生まれたとき、人はこんなにもまっすぐに心を開くのだと。

周りを見ると、主任も若手も、皆が静かに涙を浮かべていました。言葉はなくても、その場に流れているものは、はっきりと感じることができました。
あのとき、確信したのです。
変わったのは仕組みではない。空気だった。

あの陽圧のように、内側から外へと自然に流れ出る空気。無理に変えたわけでも、押しつけたわけでもない。ただ、本来あるべき状態に戻っただけで、すべてが動き出した。

人は、正しいことを言われても動きません。
しかし、「ここなら変われる」と感じたとき、自ら動き始める。
その瞬間にティッカーテープが止まり、「どうせ無理」が「もしかしたらできるかも」に変わる。
その変化が、人を動かし、関係を変え、現場を変えていく。

私はその場を離れましたが、その空気は今でもはっきりと覚えています。そして、そのとき確信しました。

これは再現できる。
特別な才能ではない。偶然でもない。構造として再現できるものだと。

この体験をきっかけに、私は次世代リーダー研修の開発に本気で取り組み始めました。
どうすれば人が動き出す空気をつくれるのか。どうすれば「もしかしたらできるかも」という状態を意図的につくれるのか。その問いに向き合い続け、形にしてきたものです。

そして今、その取り組みは続いています。
今年も5月から、20代から40代の次世代リーダーたちが集まり、この研修を受けます。
最初は戸惑い、迷いながらも、対話と実践を重ねる中で、少しずつ空気が変わっていく。
そして気づいたときには、「やらされる側」から「自ら動く側」へと変わっていく。

その瞬間を、私は何度も見てきました。
だからこそ、断言できます。
人は変わることができる。
ただし、空気が変わったときにだけ。

もし今、あなたの現場で人が動かないと感じているなら、それは能力の問題ではありません。
まだ、空気が変わっていないだけです。
そしてその空気は、つくることができる。
すべては、そこから始まります。
あなたと、お互いに語ること出来たら幸いです。


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坂田 和則さん画像
マネジメントコンサルティング部 部長
坂田 和則

国内外において、企業内外教育、自己啓発、人材活性化、コストダウン改善のサポートを数多く手がける。「その気にさせるきっかけ」を研究しながら改善ファシリテーションの概念を構築し提唱している。 特に課題解決に必要なコミュニケーション、モチベーション、プレゼンテーション、リーダーシップ、解決行動活性化支援に強く、働く人の喜びを組織の成果につなげるよう活動中。 新5S思考術を用いたコンサルティングやセミナーを行い、企業支援数が190件以上及び年間延べ3,400人を越える人を対象に講演やセミナーの実績を誇る。

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